2000年7月8日(土)のCNN(アメリカのニュースチャンネル)から抜粋(訳);
「土曜日(金曜の晩)、ニカラグア中部のとある町の住民は、家の外で一晩を過ごした。
この前々日に起こった地震で5人が死亡したので、彼らは「もしまた大きな地震が来たら、自分達も家の下敷きになるかもしれない」と、恐れているのである。
木曜日にマグニチュード5.9の地震が、そして翌日の金曜には5.2の地震が起き、この2日間で5人が死亡、少なくとも50人が負傷し、約2000戸の家屋が被害を受けた。がけ崩れで道路が寸断され、首都への交通が遮断された町もある。…(以下略)」(7月8日現在)日本の神津島や三宅島などで地震が相次いでいた頃、海の向こうのニカラグアでも大きな地震がおきました。ニカラグアも日本と同じく、火山と地震の国です。30年近く前の1972年12月23日にも、皆がクリスマス気分で浮かれている頃、マグニチュード6.2の大地震が起こり、1万人以上の犠牲者を出しました。ニカラグアの人達のその大地震に対する恐怖は、30年近く経った今でも忘れる事ができないそうです。そのなかで、この7月、再び大きな地震が起こりました。ニカラグアにいる友人、知人はどのような気持ちでいるのでしょうか…・・。
さて、内容はハリケーンに戻ります。
今回はハリケーンの時期に書いた日記や皆に送ったメールをもとにしています。当時の文章である為、その時の気持ちなどがよりリアルに表わされているでしょう。
1998年10月28日(前回から少し時間はさかのぼってハリケーンが来る前の日記から。)
全く毎日毎日雨ばっかりで嫌になってしまう(「およげたいやき君」みたいだなあ)。これでよく街中洪水にならないものである。なっているところもあるのだろう。
ここからは夕方に書いている。相変わらず雨が降っている。文字どおり1日中降っている。
おかげでエルビエホ(注;隣町)にも音楽学校にも電話局にもどこにも行けなかった。明日行こう。明日、雨が止む事を祈る。
11月7日(ハリケーン直撃後の日記から)
一体何日ぶりであろうか?この間、全く日記を書く時間が無かった。よく考えればこの10月28日ごろから天気はおかしかった。しかし、こんなに大きな被害を受けるまで降るなんてこの時点では全く考えてもいなかったもんねー。
まあ、そういうわけで、今は周りの人たちと一緒に、避難所に食料などを配ったりしているけれども、いつまで続けられるか。私も今、なんか調子が悪いしマラリアっぽい感じがするしで、不安である。まあ、1週間くらい休めばいいんだろうけれどね(結局これはただの疲れでした)。
11月8日(皆へのメール)
さて、今回のハリケーンですが、約2週間が過ぎ、私の任地、チナンデガも、首都との交通が出来るようになり、街もいつもどおりの雰囲気になっています。しかし、周りの町や村ではまだ交通が不可能な場所があり、バスの乗り継ぎや、徒歩、馬に乗ってなどでしか行けないところもまだ沢山あります。チナンデガの上空は相変わらず救援物資などの運搬のヘリコプターとセスナでにぎわっています。それに、避難所はまだまだ多いし、避難民も帰るに帰れない状況です。
ただ、阪神大震災の時とは違って、ここの人は元々失うものが少ないせいか、明るいですね。
それでも、私も含めて、大雨に対しては、どこか安心できない部分があるかなあ?
11月16日(日記から)
ありえす(妹のニックネーム)が日本から来た。この大変な時期によく来たものだと思う。
日本ではいろんな人から引き止められたらしいが。せっかく来たのだから、観光のほかに避難所にも一緒に行った。ただ、私自身疲れているのか、よくわからないけれどもすごく怒りやすくなっていると思う。
せっかく妹も避難所に一緒に来たのに、私とKさんが、考え方などの違いから同じく隊員のTさんとケンカ(口論か?)してしまった。全くどうすれば良いのやら。いろんな所に行ってストレス発散したいのだけれどもどうもタイミングがつかめない。
それにしても日本から来た某ODA(政府関連)医療チームのやっている事には納得がいかない。「チナンデガ方面は危険だから行くことは出来ない」とは!それならば何の為の緊急医療なのか?国の税金を使っておきながら…・・。それに、そのいわゆる危険地域にいる私たちは一体何なのでしょう?安全面だけを考えていたら本当の緊急援助は出来ないのでは?某NGO(非政府)医療チームはちゃんとこちらに来ているのに…・(後者のNGO医療チームは非政府組織なので、もちろんメンバーは自費で来ていました。)
というわけで次回(最終回の予定)へ。当時友人などに送っていたメールに、国際協力や緊急援助についての自分の考えを書いていたので、ハリケーンというよりは、それを中心に書いていこうと思っています。
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