こんにちは。
今回で、ニカラグアのエッセイは最終回となります。後半はほとんどハリケーン関連の話題だったような気はしますが。
さて、先日、東海地方では未曾有の大雨があり、名古屋市近辺の市町村を中心に大きな被害をもたらしました。被災された方達には心からお見舞い申し上げます。
幸い私のアパートは高台だったので、お風呂に2日間入れなかった事以外の被害はありませんでした。一方で、すぐ下を走っている国道は、大雨当時「川」状態だったらしく、翌日以降も浸水で故障した車が多数放置されていました。
それにしても、あの大雨の音を聞いているだけで、ニカラグアのハリケーンを思い出さずにはいられず、何とも言えない嫌な気分になったものです。
|
| それでは、本題に(?)戻ります。今までとダブる部分もありますが、今までの経緯と、日記等の一部抜粋、そして、そこから自分が感じた国際援助のことについて書きたいと思います。 私が帰る1ヶ月ほど前、1998年10月下旬に、中米をハリケーンが襲いました。これは、観測史上4番目の大型ハリケーン襲来であり、私の任地の隣町では山が土砂崩れを起こしたため、2,000人以上が土砂に埋まってしまったのです。その隣の山が崩れていたら、完全に私の任地を襲っていたでしょう。そう思うと今でもぞっとします。私のホームステイしていた家も30cmほど床上浸水になり、2日間避難しました。家の裏の川が決壊寸前で、その状況を見たときは、さすがに覚悟をしたものです。でも、今こうして生きているのだから人生何とかなるものなのだなあ、と思いました。
|

|
隣国ホンジュラスでの被害はもっとすごかったのですが、ニカラグアでは私の任地周辺が最も被害がひどかったそうです。先進国から来ている外国人という宿命からは逃れられず、すぐに同じ任地の隊員や、スペイン、アメリカから来ている人たちと一緒に地道ながらも緊急援助を開始しました。アメリカなど世界各国からの取材陣も来ており、私たちも日本の某新聞記者の取材同行をしたり、アメリカのあのCNNの取材チームが真剣な顔で中継をしている間、後ろで手を振ったり、今思えばバカなこともしたものです。
そのような中で、様々なことを学んだ反面、緊急援助の矛盾点、裏側というものも見たような気がする。テレビで報道されているようなきれい事ばかりではないのだ、と。
その中で、11月21日、22日と27日に知人等にそれぞれ送った日記、メール内容を載せます(1部抜粋)。
|
 |
11月21日(日記)
昨日、仲間の隊員達と、チナンデガからホンジュラス国境へ続く幹線道路沿いにある、とある町に行ってきたのだけれども、橋が3つも落ちていたためにランチャ(ボート)とバスの乗り換えを3回してようやく辿りついた。普段1時間のところを3時間近くかかった。 |
|
11月22日(メール)
こんにちは。
ハリケーンが過ぎてから約3週間が過ぎました。
今は、首都との交通も復活し、街中はいつもどおりの状態です。
避難民の数も少しずつ減りつつあいますが、それでも帰る土地が無かったり、あっても動物の死骸などで土が汚染され、帰るに帰れない人もいます。
それと、もう一つ。これは阪神大震災の時にも同じような問題が合ったと思いますが、避難所にいる人たちが援助慣れしてしまってきている、というのが感じられます。また、避難所にいると何かしらの配給をもらえるけれども、家がかなりの被害をうけたが避難所に住んでいない人たちは、配給の恩恵にあずかっていません。また、避難所によって差がある、ということもあります。これは各国の援助団体がお互いにコミュニケーションを取っていないために、同じ所にばかり援助物資が届いてしまうのでしょう。
私たちがよく顔を出している避難所(チナンデガから車で人以上の避難民が30分くらい)のところはひとつの学校に400いるため、衛生状態が極めて悪いです。はっきり言ってすごく汚い。トイレも十分に無いので学校の外の敷地には人間の排泄物がごろごろころがっています。取り敢えず、簡易トイレを作る予定になっているそうです。
ここは最初、食糧もほとんど無かったのですが、今は満ち溢れている状態です。ここの自治会の人たちもこの多量の物資をどうしようか、もてあまし気味なのが感じられます。援助するほうも、ただ物をポンと置いていくのではなく、配給の仕方など、そこまで関わっていくべきなのでは、と思いました。
最近、援助とは何なのだろう、私たちは一体何の為にこんな事をやっているのだろうと考える事が多いです。最初の頃は、とにかく人命救助や、とにかく食べさせていくことで必死でしたが、時がたつにつれて、いろいろな矛盾を感じてきています。意外と現地の人たちは冷静でなおかつマイペースです。外国の援助団体がやれ食糧だ、やれ医療品、古着だと走り回っている中で、ここの人たちは、変な言い方をすれば無関心であったり私たちよりもさっさと家に帰ってしまったりで、現地人でない私たちがなんでこんなに忙しいのだろうと、ふと思ってしまいます。まあ、最近は、自分がやりたいからやっていて、自己満足の部分もあるのだろうと割り切っていくことにしています。自己満足だけではいけないのが事実ですが。 |
|
11月27日(日記)
後少し、というところで私もとうとう、伝染病に罹ってしまいまった。眼の炎症で、ハリケーン直後は避難所を中心にたくさんの人が罹っていたのだけれども、わたしもとうとう・・・・・。
(追加; 結局この後約1週間、私は家で寝ていたのです。) |
|

|
最後に;
私自身、ニカラグアに2年間住んで思ったことは、「今の生活に何の不自由があるのだろう?」と言うことです。日本みたいにあくせく働いていないし、経済的には確かに貧しいかもしれないけれども、それなりにうまくやっていっています。正直言ってそんなにむちゃくちゃ困る、と言うようなことありませんでした。みんな、心は豊かなのです。 私がここに来て一番始めに大事だと思ったことは、信頼関係を築くこと。お互いに信頼感がないと、いくら技術を持っていてもそれを伝えることはできないと思うのです。私自身、それですごく辛い思いをしたし、でもそれは、結局は自業自得だったのです。相手に対する理解がなく、日本的基準で考えたがためにみずから招いたことでした。
もう一つ、国際協力で必要なのは、日本の技術提供ではなく、まずは技術の紹介が大事なのではないか、ということです。「こういう事を日本でやっています」てな感じで、情報を与えることが第一なのではないかなと思いました。どちらかと言えば国際交流みたいな感じですね。
国際援助なんていう言葉自体、いわゆる先進国と呼ばれている国の優越感を感じます。援助なんてしなくても普段の状態ならここの人たちはやっていけるのです。先進国といわれる人がやってきたことで、その国の平衡が崩れてしまったのではないかとも思いました。
でも、こういう経験をしたおかげで、自分というものを見つめることができたし、自分の世界も広がりました。そのような意味で、この経験を通して出会った人々には本当に本当に感謝しています。
また、このエッセイの作成を手伝って下さった皆様にも、いろいろお世話になりました。私自身は、ただ文を書いて写真を送るだけでしたが、それをホームページに載せるまでお手伝いして頂いた方達には、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
|