「ニカラグア」この国の名前を聞いてどこにあるかわかる人がどれくらいいるのだろう。国名だとさえわからない人のほうが多いかもしれない。3年前までの私は大多数の人と同じようにそんな国がどこにあるのかも知らなかった。
平成10年10月「ハリケーンミッチが中米ニカラグアを直撃。死傷者6000人以上?」そんな記事が新聞の片隅に載った。3年前の私なら大多数の人と同じように、どこかよく知らない国でなんだか災害が起こったんだ、くらいしか思わなかったろう。しかし今は違う。姉がいるのだ!青年海外協力隊として赴任している姉がいる
のだ!さらに、2週間後には私はそこを旅行することになっている!
姉のいる国で大災害が起こったとあって、我が家はちょっとしたパニックに陥っていた。姉は首都から遠く離れた、ニカラグアの中でも特に被害のひどい地域の近くに住んでいたのだ。
詳しい情報を知ろうと思ってニュースを見ても、遠い小国ニカラグアの被害情報は2分も放送してくれない。領事館に電話しても情報が混乱していてテレビ以上のことはわからないと言う。
しかし、現代の科学って素晴らしい!なんと、姉から無事を伝えるEメールが来た。これには家族一同ビックリ。
姉の住む町は橋が全部流されて首都との交通が寸断されていた。食料も援助物資も届かず陸の孤島になり、家も浸水していた。隣町からの食料は届かなくても、遠く離れた日本とのメールのやりとりはできたのだ。メールに国境はないことにあらためて感謝した。
そのうち、水も引き、私の出発も近づいてゆく。私の旅行は、「危険すぎる」とずいぶん反対されたけれど、こわいもの知らずな私には災害の恐ろしさよりもハリケーンの通ったあとがどんなものか見てみたい気持ちの方が強かった。こんな機会めったにないもの。かくして私は不安そうな両親に見送られ、意気揚揚と成田を出発した。
ニカラグアは痛いぐらいの強い日差しと、そして抜けるような青い空が果てしなく広がっていた。飛行機の着陸した首都マナグアはハリケーンの被害も少なく、日常の生活が広がっていた。
このニカラグアの「日常」は私達日本人の日常とはだいぶ違う。まず、首都なのに、道路に車に混じってロバが走っている。決して観光用ではない。荷物を運ぶ為に生活必需品として使われていたのだ。(下の写真には残念ながら写っていないが、車と平行してロバが走っていた!)
首都なのにずいぶん緑が多く、高い建物が全くない。これは地震の多い国だからだそうだけど、同じ地震国から来た私にはあんまり納得できなかった。そして、これも地震に関係あるそうだけど、建物と建物の間にふんだんに距離があ
る。例えば今スーパーにいて、隣のマクドナルドに行きたいとする。日本だと5歩や10歩でいけそうなところだが、ニカラグアで隣に行くには、広い駐車場をつっきり、ヤシの木を越え、さらにマクドナルドの敷地に入ってからお店本体に到着するころには10分以上が過ぎている。しかも気温は30度超なのだ。
ニカラグアで隣といえば徒歩10分、すぐそこといえば20分、歩いていけるところといえば、徒歩1時間。15分歩くところでもバスを使う自分が恥ずかしくなってきた。
首都マナグアから姉のいるチナンデカまでバスで移動する途中、私は初めてハリケーンの被害を見た。橋が全部落ちていたのだ。来る前から、橋が落ちているということは姉から聞いていたけど、実際に見るまではピンとこなかった。クッキーを2つに割ったように道路がポキッと割れて断面が生々しく見えた。
水量がよほど多かったのだろう。橋の周りも岸がえぐられて、赤茶けた土がむきだしになっていた。このコンクリートの塊がどうして流されてしまうのか不思議でならなかった。橋の補修はまだされておらず、バスは川底近くの迂回路を通って進んだ。
チナンデカではあちこちにハリケーンの跡があった。木は倒れ、家も壁がずれたり、床上浸水の跡があったりした。折れた木はもうもとに戻らない。家をなおすのも容易ではない。
目に見えるところだけでなく、海老の養殖場が壊滅状態になり、畑にも被害がでている影響で、レストランのメニューも減っていた。
災害とは、その時だけではない。その後にも永遠に影響を及ぼすものだと改めて思い知らされた。
次の日、家でのんびりした後、姉の緊急援助活動にくっついて避難所に連れて行ってもらう。二人の協力隊員がよく来たねえ、と目を丸くしながら私を迎えてくれた。
避難所は衛生状態が悪いから、長袖長ズボン、肌をできるだけ出さない格好で来るように言われた。援助しに行って病気に感染したら元も子もない。
そして、避難所から戻って手を洗うまでは決して目をこすってはいけない。これはコンタクトの私にはけっこうきつかった。
バスを乗り継いで1時間半あまり、避難所に到着。小さな小学校に何百人もの人が生活している。施設に対して人が多すぎるため、トイレはすぐに詰まったそうだ。今は外に仮のトイレがあるが足りてない。ゴミも校庭の隅に山積みになって、たくさんのハエがたかっていた。場所がないらしく、食事は外でつくっている。
援助物資として大量の石けんを持って物資を置く部屋に入ると、部屋の周りにあっという間に人だかりができた。外国人が来る=モノをもってきてくれる、からだ。
さっそく姉達は避難所の管理者と避難所の衛生問題について語りだす。スペイン語の知識も専門知識もない私は何もできることがない。そこで外に出て避難所の様子を見ることにした。
実は私は避難所で不自由に暮らす子供達に何かしてあげたいと思って、日本からおもちゃや文房具を少し持ってきていた。
ちょっとあたりを歩いていると子供達がよってくる。彼らはとても元気で私のまわりをぐるぐる回り、スペイン語でなにやら一生懸命話し掛けてくる。トカゲを捕まえて持ってきたり、なにやら自分の宝物を持ってきたり得意技を見せているようだ。一緒に遊びながらおもちゃを手渡すタイミングを考える私。しかし、持ってきたおもちゃに対して子供の数が多すぎる。どうしよう。
今そばにいるのは4〜5人だけど、おもちゃを出したら周りの子供達も集まってくるだろう。そしておもちゃは奪いあいになり喧嘩になる。また、子供達は私に、もっとちょうだいちょうだい、としつこくせがんでくるのは明らかだ。 私はさんざん悩んだが、結局おもちゃをかばんからだすことはなかった。
後で姉に相談したけれど、それで正解だと言われた。自分で適当なものを贈るのは自己満足に過ぎない。もらった相手がどうなるかを考えて計画的に贈るのが本当の援助だ。あらためて、援助の難しさを考えさせられた。
また、あんなに元気に遊んでいた子供達だけど、ほとんどが下痢や涙目などの病気にかかっていると聞かされさらにびっくりした。心にひっかかるものを残しながら私は帰国した。
この旅行は気軽に行くのを決めたが、思った以上に考えさせられることの多い旅行になった。行く前には危険だと反対されたが、それ以上に得たものが多かったと思う。災害の恐ろしさは実際に遭わないとわからない。災害の現場をみなければわからない。
私は、ハリケーンの直撃した後に訪れたので、災害そのもののの恐ろしさより、その後の恐ろしさ、そして援助の難しさを目の当たりにすることができた。本当にお金では決して買えない貴重な体験だった。
今も伊豆諸島で地震と大雨が続いている。今後も自然災害はなくなることはありえない。大切なのは災害が終わった後、私達が何をしてあげられるかだと思った。
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