![]() 作:あくっちゃん |
ニカラグアの地図(産経新聞社の資料より) |
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チナンデガ市(私の任地)に私たちと同様、国際協力という形で派遣されているビッキーというニックネームのスペイン人が当時市役所で働いていた。彼女はハリケーンがチナンデガを襲った翌日から、スペインにいる知人達と連絡を取り、避難所に配る食糧品その他の資金を募っていたのである。 私も自分の家の片づけが一段落ついたし、このまま何もしないわけにはいかなかったので、ビッキーや同じチナンデガに派遣されている協力隊員たちと一緒に、まずは自分たちのお金を出し合って、米、豆などの食糧品を買い、近くの避難所へ配る活動を始めた。避難所は主に学校や教会が使われていた。その為、市内の学校は事実上休校となっていた。 |
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| 避難してきた人たちはほとんどが付近の農村の人たちであった。水がひいても,コレラなどの伝染病が発生する恐れがあるために戻ることが出来ないという人が多く、中にはカシータ火山の土石流で村ごと消滅したために戻る所がないという人たちもいた。 |
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| 避難所の衛生状態は、日本人の感覚からすれば想像を絶するほど悪いものだった。ひとつの教室に、多数の家族が押し込まれている、といった状態である。布団なんて物はないので、皆着の身着のままで寝ている状態である。もちろん着替えなどない。 トイレはちゃんと地面を掘ってビニールとついたてで隠している。しかし、絶対数が足りないので、校舎のわきで用を足している人たちも多い。その中をほとんどの人がはだし又はビーチサンダルで歩いている。そのような状況なので、避難所では下痢、水虫、目の感染症(涙目)などが大流行していた。 |
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| ビッキーたちと一緒に避難所をまわったのをきっかけとして、私たちの緊急援助活動が始まった。首都のほうでは他の協力隊員を中心に、日本ではOB隊員を中心にして災害復興委員会が発足し、義援金などを集め始めた。 |
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橋が流されたために寸断されていた首都との道は、約2週間後に復興した。おかげで様々な物資がヘリコプターを使わずに届くようになったし、なによりも物不足になる心配がなくなった。 緊急援助団体は私たちのほかにも数え切れないほどいた。国も様々で、アメリカ、スペイン、オランダ、イギリス、ドイツ、デンマーク、その他もろもろ。 |
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| また、これらの物資が無計画に送られるために、使い道が見つからず、ずっと積まれたままになっている物資もたくさんあった。 避難所の管理者、関係者による物資の横領もいたるところであった。ただ、本人達は横領とは思っておらず、「たくさんあるから一つ家に持って帰ろうっと」程度にしか考えていないのであるが…・。 |
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| 外国(主にアメリカ)の報道陣もたくさん来ていた。たまたま、臨時ヘリコプター発着所(市の病院の裏側)に行った時、CNNが来ており、特派員がまじめな顔でレポートしている後ろなどでピースをしたり、今思えばアホなことをやったりした。 日本の某新聞記者も来ていたので(偶然会った)、病院などに一緒についていったりもした。 |
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ハリケーン災害に関するリンク (現在の状況は、その後の変化により、ホームページの
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